のびた人インタビュー

理科だけが好きだった。── 米村でんじろうさんインタビュー vol.1

 

サイエンスプロデューサーの米村でんじろうさんにインタビューをしました(全3回)。初回は、子ども時代を中心に、大学受験までのお話をうかがった記録をご紹介します。インタビュアーは、化学クラブに所属する中学1年生の男の子です。

 

 

身近な疑問に答えてくれる理科がすごくおもしろかった。

 

 

──科学の道に入ったのはいつ頃からですか?

 

仕事として理科の先生になったのは29歳のとき。一週間のうち1、2日くらい学校で教える講師の仕事をした後、都立高校に就職して理科の先生になったの。高校で11年働いた後、学校をやめて、サイエンスプロデューサーの仕事を40歳のときに始めた。今はもう60歳だね。

 

──小学生くらいの頃、科学に興味はありましたか?

 

小学生のときから科学は好きだったね。東京オリンピックがあったのは1964年(昭和39年)、小学4年生のとき。テレビがまだなかった。生まれ育ったのが千葉の田舎でね、ご飯をかまどに薪をくべて炊いて、お鍋は七輪を使っていた。水道もまだ完備していないから、ひしゃくで水をくむの。

 

そこが日本の変わり目だった。1962年(昭和37年)から日本の高度経済成長の転換期が始まったんだけど、日本がどんどん変わっていった。

 

里山ってわかる?雑木林でカブトムシを取ったりするの。千葉にはあまり険しい山はなくて、そこに流れる川も、子どもが遊べたり、魚が釣れたりするような穏やかな小川。よく里山に行って、魚やうなぎをつかまえたり、山菜を取ったりしてた。

 

_MG_0267

 

あの頃は自然が身近だった。夜は星が見えるし、野山に行くとトンボやクワガタ、カブトムシがいた。まず自然に興味があったんだ。植物の名前、食べれるか食べれないか。干物を作ったりとか。

 

毎日、山に太陽が沈む頃、陽の長さを見ながら、「いま、何時頃かな。帰らないとなあ」って。星座も見て。「どうして月は満ち欠けするのだろう」「なぜ月食や日食が起きるんだろう」と思ったりしていた。

 

動物のことも含めて、理科の授業が、そういう身近な疑問や質問に答えてくれる教科だったからすごくおもしろかった。

 

時代のちょうど変わり目だったから、まず世の中にテレビというものが生まれて、白黒テレビが家に入ってきた。プロパンガスや冷蔵庫もやってくる、そういう時代だったの。科学技術がどんどん身近になっていって、生活が大きく変わっていった。

 

 

テレビで見る、夢のような話に惹かれた。

 

 

──経済の変わり目を見てた?

 

そう。僕が小学生の頃から日本が変わり始めて、当時は冷蔵庫、テレビ、洗濯機を、電化製品の「三種の神器」と呼んでいた(1950年後半)。洗濯機も、それまでは木のたらいに、洗濯板を置いて洗濯してたんだよ。うそみたいだけど本当に。

 

そこに洗濯機が入ってきてね、珍しくてそれが。絞るところがローラーになっていて、ローラーとローラーの狭い隙間に洗濯物を入れてガラガラッて絞るの。その後に脱水機が出たんだよね。その境目が僕の子ども時代だった。それで科学に興味をもったんだよね。どんどんいろいろなものが新しくなるから、「科学ってすごいなあ」って。

 

テレビをつけると、未来はもっと自動車が空を飛んでいたり、夕食が簡単にできたり、みんなが宇宙に行けるような、そんな夢みたいな話がいっぱいあって。「科学技術で夢のような未来をつくっていきますよ」という話があったんだ。

 

 環境と、時代の変化に大きな影響を受けて、小学生の頃から科学が大好きだった。理科だけが好きだった。

 

 

 ──先生は熱心でしたか?(たかなし)

 

 

熱心でしたね。今の先生も熱心だよ。でも、当時は理科に力を入れていた時代だったしね。昭和30年代は理科教育に対して国も力を入れていたから、指導面などいろいろと熱心だった。夏に天体観測会をやったり、授業で自然観察会をやったり。そんなことが当たり前にできて、理科室で実験もさせてくれた。

 

 

_MG_0574

 

 

 

身近な生物に興味はあったけど、実験っぽいことがおもしろかった。

 

 

──理科は、生物とかのスケッチはきらいだけど、電機や物質とかは好き。

 

そうなんだ。工作とか好きなんだね。モーターで動かしたりね。

 

──つい最近、理科の中間テストで地震や火山の問題が出てたんですけど、83点だったんです。

 

そっちは自然系だけどな。生物とかも身近にいるとね、いやでも興味がわくんだよね。昆虫とか魚とか。昔はメダカもドジョウもゲンゴロウもその辺にいっぱいいたし、川にはウナギを含めて魚がいっぱいいた。

 

そこから、急に自然破壊が進んでいくんだけどね。それでも昭和30年代はまだ豊かだった。「なんという名前の魚かな?」「この昆虫は何て名前だろう」って思っていた。日曜日には弁当をもって、きのこ狩りに行くのが日課みたいになっていたね。

 

まわりに生き物がたくさんいたから自然と興味がわいたけど、僕もそんなに生き物に興味がわかなかった。図鑑とかがわかりにくくて調べものが難しかったの。当時は、写真も白黒だったりでよくわからない。それよりも学校で電球をつないだり、モーターをまわしたり、工作で電車を作ったりしてるほうが実験をやってる気がして楽しかった。薬品を混ぜると、ぶくぶくと色が変わったりして、そういうほうが珍しかったし、楽しかった。

 

──昆虫は好き。

 

昆虫は好きなんだなあ。

 

──この前、動物園に行ったら、カマキリがいたからつかまえようとしたけど、やめておいた。

 

カマキリがつかめない人いっぱいいるもんな。前を持つとね、やられるからね。クワガタとかは痛いけど、カマキリはそんなに痛くない。でも、いやだもんな。

 

クワガタとかさ、夏に雑木林へ行くといっぱいいてさ。夜の灯りのところに集まってきて。みんなマッチ箱持ってきてつかまえてたね。で、ひもで結んでそのまま飛ばして、追いかけてつかまえたり。

 

昔の子どもたちの生き物相手の遊びってちょっと残酷だったんだよね。トンボの尾っぽをよく切って飛ばしてた。羽をちぎっちゃうの。すると飛びが悪くなるでしょ。それをまた飛ばして追いかけてつかまえる。みんながそういうわけじゃないけど、少しやんちゃな男の子はそんな感じ。カエルもいっぱいいて、ザリガニをつかまえたりね。

 

生き物には関心はもっていたけど、どっちに夢があるかといったら、テレビとかロボットとかね、科学っぽいこと。テレビでやってるアフリカのこととかさ。草原のライオンとかゾウとか。興味はそっちに飛んでいたかもしれないね。

 

 

 _MG_0270

 

 

 

やりたい放題だった中学時代の化学クラブ

 

 

──クラブは生物研究的なことですか?

 

小学校のときは覚えていないけど、中学は化学クラブだった。理科の先生で化学が得意な人がいて、その先生が顧問。実験室が部活の活動場所だったんだけど、その先生はテニス部の顧問もしていていて、部員だって4、5人しかいないから、「好きにやってろ」って感じで。実験事典みたいなので「おもしろいのやってないかな」って調べてみて、「この薬品とこの薬品を混ぜてみたら、何かが起きるらしいぜ」みたいな。

 

──薬品はどこからもってくるんですか?

 

理科室の薬品が入ってる教室があって、鍵もかかってないから、先生がいないときに勝手に入って行って、「おおおーーー」とか言って(笑)。文化祭もいろんなものを用意して、先生の指導で模造紙に何かを作ったり、この程度だね。先生があんまりうるさいことは言わなかったからね。

 

──それで失敗したことはありますか?(たかなし)

 

大事故みたいなのはないですね。そんなに危ないことはやらなかった。ただ、学校ではそうだったけど、どうしても中学生の頃に、だいたい化学クラブ系とかね、やっぱり爆発系がおもしろくなるんだよね。激しい化学反応とかが好きでね。

 

──芸術は爆発だ、みたいな。

 

そうそう。だから、僕も火薬とか好きで、いろいろ興味がわいてくるんだよね。散々好きなことをやって、中学3年生かな、一度火薬で遊ぼうとしてけがをしたんだよね。火薬実験はやりすぎる大けがする。調子こくと失敗する。

 

 

_MG_0515

 

 

火の扱いは、子どもの頃から慣れてたんだけどね。昔は火を焚き放題だったの。大人はすすめないけど、「火遊びすんじゃねえぞ」って。でも、マッチ持ってるし。誰か見てるわけじゃないから、帰ったら山と川しかないし。大人の目なんて行き届かないからね、好きなところで焚き火したりね。やりたい放題だった。

 

あと、山には、洞窟や洞穴がたくさんあるんですよ。そういうのを秘密基地にして、焚き火をしたり。庭も田舎はみんな広いから、火を起こして焚き火をするのって普通だったんだよね。今なんてキャンプに行かないとやらないよね。

 

 

自宅から近い高校へ進学、その後、東京学芸大学に入学。

 

 

──中学校時代の成績はどうでしたか?(たかなし)

 

当時の通知表は5段階評価で、理科が5か4くらいかな。英語とかは1もあったね。家庭科も2とかね。テスト勉強を一切しなかった。勉強という概念がなかったから。小学校時代も。昔の田舎だから、今では想像できないかもしないけど、僕の親も、戦前の人間なので、田舎だと尋常小学校といって、今の小学校までしか義務教育がなかったの。だから、小学校はみんな卒業してるけど、中学校には行かない人が多かった。

 

その後、高度経済成長期に入ると、「田舎でも高校くらい行かせなきゃ」みたいな雰囲気になって、「みんなが大学に行くから大学に行かせよう」となった。10年くらいで劇的に変わったの。

 

───高校もじゃあ、高校くらい出なきゃという流れで進学されたんですか?(たかなし)

 

うん。そう、ぼくの時にちょうど進学熱がちょうど並行して。ちょっと前までは高校進学率はがくんと低いんです。僕の頃に高校にだいたい行くようになって、それでも数割は、高校卒業後に就職をした。でも大半は、中学校を出て、いろんな工場とかで働く、16歳くらいで親元を離れてというのが結構多かった。

 

それでも進学が当たり前になってきて、僕も自宅から近い高校に入って。高校では、段々と大学に進学している人が増えて、僕も大学に行きたいなあと思ったけど、勉強してないから、3浪。

 

昔は、自分の家の状況とか、父親が亡くなったりいろいろあって。経済的に私立に行く余裕がなかったから国公立。めっちゃ安かったの。年間で何万円くらい。それが東京学芸大学。

 

でも、もともと理科の先生になるつもりは全然なかったの。理科が好きだったけど、理工学部は全然入れてくれなかった。どこも断られて(笑)。

 

 

 

 

「先生、お話の途中ですけど、月食がきれいに見えていて」

スタッフの方が呼びにきてくださり、

屋上に上がって、みんなで皆既月食を見ました。

 

 

_MG_0374

 

 

 

 _MG_0382

 

<Vol.2へつづく>

 

撮影:モギヨシコ インタビュアー:しむらこうすけ 文・編集:たかなしまき

 

 

Profile

米村でんじろう

日本初のサイエンスプロデューサー。1955年千葉県出身。東京学芸大学教育学部大学院理科教育専攻科修了後、学校法人自由学園講師を経て都立高校教諭になる。1998年、米村でんじろうサイエンスプロダクション設立。身近なものを使った実験の企画、開発、パフォーマンスで、科学の不思議や楽しさを伝えている。「米村でんじろうサイエンスプロダクション」公式HP:http://www.denjiro.co.jp/

Related Posts

 

Comment





Comment